4:「彼」の想い 3 白い小さな弔い花の花束を手に、それをじっと見つめる。 目の前にある石は、何も言わない。それでも俺は、ここに来る必要があった。ここに来なければなかったのだ、と思う。 「いい加減……踏ん切りつけないと、だよな」 それはアイツのことだけじゃない。多分俺の胸の内にある、弱さの全て。 考えてみれば、俺はいつも目を背けて来たような気がする。アイツのことからも、親父からも、きっとユリやジェシカの気持ちからも。俺が親父の研究のことを知らなかったのだって、当たり前のことだったんだ。俺が自分から、親父の仕事に関わることを避けてたのだから。 だって、ハクのことを、それ以上知りたくなかったから。 怖かったんだ、アイツを知ることが。 恐ろしいものを遠ざけようとすることは、人間として普通のことなのかもしれない。けれど、いつかそれと思わぬ形で、真っ向から向き合わなければならない時が来ることだってある。 俺の場合きっと、それが今なんだ。 今まで封じ込めていた、あえて思い出さないようにしていた記憶を、ゆっくりと引っ張り出していく。僅かな呼吸の苦しさと、確かな胸の疼きを、堪えて。 あれは親父が入院してから、三週間近く経った頃だっただろうか。体の調子が比較的よくて、気分転換にベッドを起こして窓の外を見ている時だった。親父がアイツを、枕元に呼んだのは。 「ハク、よく聞いてくれ」 「はい」 じっと見つめる親父を、アイツも真っ直ぐに見ていた。 「私はあと、数ヶ月も生きられないだろう」 「……はい」 一瞬返事が遅れたのは、俺の気のせいじゃなかったと思う。二人に気付かれないように、少し離れたところで、俺は一人、奥歯を噛み締めていた。 「だがそのことを、何も気に病む必要も、自分を責める必要もない。君は今まで、本当に私たちによくしてくれた。ウチに来てから、二十年もの長い間、ずっと」 二十年。それはアイツにとって、長い時間なのか短い時間なのかはわからないけど。俺や親父にとって、大切な二十年だったと言い切ることは出来る。だから。 「だからもっと、自分を誇りに思いなさい。自分に自信を持ちなさい。君は確かに愛されていたのだから。今も、そして遥か昔もね」 「なぜ、そう言い切れるんですか?」 俺も思ったその疑問に、親父は当たり前のようにアイツに言った。 「君は、感情を知っている。嬉しいという気持ちも、悲しいという気持ちも。それはきっと昔、誰かが、君を人間として扱ったからだ。まるで、自分の家族のようにね。その人は間違いなく、君を愛していたんだ」 本当はその時にはもう、話をするのも辛い体だっただろうに。それでも親父はゆっくりと、静かに話し続けた。 「多分、その人は君に、人を傷つけてほしくなかったのだろうね。きっと、君が安らかに逝けることを、心から願っていたに違いない。が戦争が起きる度に、君は起こされた。何度でも。混乱期が終わって、やっと長い眠りについていたのに」 その時、アイツと初めて会った時のことが、脳裏をよぎった。親父の言葉に、訳もわからず怖さを覚えていた俺だったけど。 あの時、誰よりもその胸を痛めていたのは、もしかしたら親父だったのかもしれない、と親父を見ながら思った。だって。 「そんな君を、無理やり起こしたのは、紛れもなくこの私だ。君には、本当にすまないと思っている」 「いえ」 そう話す親父の目に映っていたのは、明らかな悲しみだったから。 そんな親父を、ハクはいつになく真剣な目で見つめ返していた。 「ハク」 「はい」 親父がそう呼べば、アイツはいつでも背筋を伸ばして即答した。いつもと同じ、いつも通りの会話。今まで、何百回も何千回も聞いた、会話。それももうすぐ、終わってしまうという恐怖を抱えながら、俺は黙って二人の会話を聞くことしか出来なかった。 「今君の主は……私、なのかな?」 「はい、私の今の主はあなたです」 少し苦しそうに、荒い息を整えてから。 「では君に……最後の命令を言い渡す」 「はい、なんなりと」 ――ああ、そうだ。 あの時、親父が言った言葉は。親父が最後にアイツに願った、たった一つのことは―― 「自分の好きなように、生きなさい」 「好きなように、ですか?」 意味がわからず、戸惑ったように言い返したアイツに、親父は頷いたんだ。 「人に何を言われようと、自分の生き方は自分で決める。それが人間というものだ」 そうか、そうだったんだよな、親父。 「自分を探すのもいい。夢を追いかけるのもいい。誰かを愛するのもいい」 その一つ一つを、親父が本気でアイツに出来ると思っていたのかは、俺にはわからない。けれど本気で親父がそれを願っていたのは、それだけは、よくわかった。 「もう、誰かを主とすることもせず……自分のために生きなさい。自分の好きなように。君はもう」 憔悴した顔で、それでもその時、親父は確かにアイツに微笑んで言った。 「『人間』、なのだからね」 容態が急変したのは、その数日後のこと。結局それから十日も経たない内に、親父は息を引き取った。最後の方は痛み止めの薬でほとんど眠っていたから、静かなものだった。親父、笑ってたな、最後。そしてそのそばで、アイツも一人微笑んでたな。親父に見えていないのを知っていながら、最後まで親父を安心させるように。 いや、最後までじゃないか。 アイツはずっと、笑ってたんだったな。葬儀の時で、さえも。 「ねえ、ハカセホ」 花に囲まれた棺を見送りながら、アイツはふと横にいた俺に視線を向けて、ぽつりと呟いた。 「どうして私は、死ねないんだろう」 そんなこと、聞くまでもなくわかっているはずなのに。いつものアイツなら、そんなこと絶対に聞かなかったのに。 「大切な人を失っても、どうしてまだここにいるんだろう。どうして同じ場所に、行けないんだろうう」 その時アイツは、俺の顔をじっと見つめてた。涙を見せることなく、笑顔さえ浮かべたまま。その理由を、俺は嫌というほど知っていた。 泣かないのではない。 泣けないのだ。 機械に涙は必要なかった。それは誰かを喜ばせるものではないから。 相手に気に入られるにも、敵を騙すためにも、笑顔さえあれば十分。ましてや涙を流すのを見て、喜ぶ人なんていない。 人が悲しむだけの、戦いには不必要なもの。そんなもの、備える価値もなかったのだろう。それはきっと、どこまでも正しい判断だったのだと思う。 ただ、一つだけ。一つだけ、想定外だったことがある。 アイツが、「死」を知ってしまったこと。 大切な人の「死」を、知ってしまったこと。 今まで、何人もの人間を殺してきた、その回路が。何度も「死」というものに直面しながら、数えきれないほど再生させられた、その金属の塊が。 そうだ。 死ぬことさえ、許されなかったんだ、その体は。「死」を知ってしまった、今でさえも。 答えられる言葉なんて、俺にあるはずもなくて。だからただ黙って、その顔を見つめ返すしか出来なかった。 「ハカセホ、お願いがあるの」 黙ったままの俺に、アイツは言ったんだ。 「私の代わりに」 あの場所には、たくさんの人間がいたとのに言うのに。 「泣いて」 他でもない、この俺に。 「私の分まで、泣いて」 あの時、俺は泣かなかった。悲しくなかったわけじゃないのに、呼吸することさえ苦しかったのに、なぜか涙は出てこなかった。俺たち二人の分くらい、ユリは泣いてくれていたというのに。 今ならわかる。その理由も。 俺は、受け入れていなかったんだ。親父の死を。ただ、その事実を置き去りにして、いつの間にかどこかに押し込んだまま、今まで笑ってきたんだ。 結局、何もかも見ないふりじゃないか、俺は。そう、アイツのことだって――。 本当は、とっくの昔に気付いていたのだ。アイツが変わり始めたのが、親父が死んでからだってこと。ただ気付かない、ふりをしてただけで。 だってそれに気付いてしまったら、向き合わなければならないと知っていたから。親父の死を、真っ向から受けなければならないとわかっていたから。それに耐えることが、怖かったから。そんな俺と違って、アイツは――。 自分のため。アイツはきっと、それを探し続けていたんだろう。親父が死んでから、親父の最後の命令を、守るために。その想いを、無駄にしないように。その死を認めるために。この一年間、ずっと。 結局、最後まで親父の死を認められていなかったのも、俺だったのかもしれない。 アイツはもう、歩き出したんだ。だったら――。 白い空をもう一度見上げて、一人呟く。 「全く……アイツはやっぱ、機械なんだな」 草の香りのする風を感じながら、溢れ出ようとするものを抑えることもせず、そっと微笑んだ。 「最後の最後まで、主の言うことに忠実過ぎるぜ? 親父」 |